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はじめての長崎[09] 城山小学校平和祈念館

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浦上川に架かる梁橋を渡ります。

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この長い階段の先に城山小学校はあります。
その片隅に被爆した校舎が平和祈念館として残されています。

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永井坂
永井隆博士の「この子を残して」の印税から基金をいただき植樹した桜の木があることから命名されました。
昭和24年2月に寄贈された桜は毎年春になるときれいな花のトンネルになり見事です。


長い階段を登ったは良いものの記念館らしきものは見当たりません。
城山小学校の校門は閉まっています。

校門の中に記念館らしき建物を見つけました。
校門は閉まっています。
しかし、横の通用口は開いていました。

「記念館には入れなくても、ちょっとだけ敷地に入ってみようかな。。。」

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校門を入ってすぐに「少年平和像」があります。

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少年平和像
原爆ですべてを失った本校児童が平和を願って立ち上がる姿をかたどったものです。製作者は富永良雄氏で昭和26年8月8日に作られました。モデルの少年は当時5年生で父母を原爆でなくしました。台座の「平和」の文字は当時6年生だった菅原耐子さんの書です。耐子さんは1年生の時に被爆しましたが奇跡的に助かりました。


ふと、記念館の方に目を向けると、受付に人影を見つけました。

「土日と祝日は、いつもは閉めているんですよ。」
「あ、そうなんですか。。。あの、入口だけでも、ちょっとだけ、覗かせてもらえませんか???」

「どこから(来たの)ですか???」
「東京からです。初めて長崎に来たものですから、色々勉強させていただこうと思ってあちこち歩いています。」

「土日と休みの日は普段は開けないのですが、予約があれば開けることに決めたのです。今日はその初めての日なのです。どうぞ、見学して行って下さい。」
と、優しい笑顔で迎え入れて下さいました。

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そして館内の明かりをつけ、音響までセットして下さいました。

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中には当時の貴重な写真や資料が大切に展示されていました。

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息が苦しくなるような写真も沢山展示してありました。

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「こちらにも来てください。」
「はい。」
小さな部屋に案内されました。
手のひら大の小さな写真が壁いっぱいに貼られていました。

「爆死した先生方です。みんな若いでしょう。男の先生はみな戦争に取られたので代用教員といって若い人が教えたんです。」
言葉を失いました。

「まだ、時間はありますか???」
「はい、大丈夫です。」と答えると、
椅子を勧めて下さいました。

そして、16世紀にポルトガル人がやって来て以降の長崎の歴史を話して下さいました。
長崎が原爆の標的になってしまうまでの経緯も冷静に、そして客観的に話して下さいました。

そして「実は自分も被爆者なのだ」と教えて下さいました。
(奥様も被爆者なのだそうです。)

「被爆者のラストは同じです。皆決まっているんです。癌で死ぬんですよ。」
「私は7歳の時に爆心地から700mの所で被爆しました。たまたま防空壕にいたので、助かりました。母も同じところで被爆しましたが、その時は防空壕の外に出ていました。即死はしなかったけれど、10日後に亡くなりました。」

これまでずっと親切に色々お話して下さった方が、実はあの原爆の被害者だったなんて、ワタシは何か大変な秘密を打ち明けられたような気分になりました。

「ここに饅頭が1ヶあったら、どうしますか。今なら『1ヶしかないから分けましょう』となるでしょう。でも人は極限の状態に置かれたらそんなことはできません。そこにいる1番強い人だけが食べるんです。それが極限の状態なんです。」

「今でもサイレンの音を聞いたり、腐った臭いを嗅いだりすると、当時の事が一瞬のうちに蘇ってきます。」

「戦後は被爆者に対する偏見や差別もありました。被爆者は身体が弱いだろうと、就職も出来ず、結婚も出来ません。昔は年頃の娘を広島と長崎には旅行にやるな(被爆者の男性に見初められては困るから)と言われていたんです。」

「原爆の被害者なのに被爆者であることを隠して生きていかなければならなかった。あの時一瞬の内に死んでしまった方がマシだと考えた事もある。」

お話を伺っているうちに、悲しさや絶望感と共に、それとは何か違った気持ちも湧いてきました。
「あぁ、ワタシも遂に知ってしまった。それも原爆の証人から直に話を聞いたのだ。このことは絶対に忘れてはならないし、誰かに伝えなければならない。」

この方はきっと、すっかり忘れ去りたい、決して思い出したくない辛い過去の体験を見も知らない、今日初めて会ったばかりのワタシに話して下さったのです。

ワタシはその事を肝に銘じなければなりません。
きっと身を削るような思いで話して下さった事を、決して忘れてはならないのです。

別れ際に
「今日は休みの日に開けた最初の日です。きっと何かご縁があるのでしょう。
またお会いしましょう。」
と声を掛けてさいました。

「今日は本当に大切なお話をどうもありがとうございました。
どうか、いつまでもお元気でお過ごし下さい。」
こんなに心から言葉を発したのは生まれて初めてと思うくらい、祈るような気持で伝えました。

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本当に名残り惜しい気分で記念館を後にしました。
学校の敷地内には大勢の見学者がガイドさんとともに集まっていました。

「この見学の人達のお陰で会えたんだ。」
ワタシは今日の、この巡り合わせに感謝しなければなりません。

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(この稿は東京に戻ってすぐに書きました。お話を伺う際に、メモを取ったり録音等はしておりませんので、聞き間違いや記憶間違いがあるかもしれません。何卒ご了承下さい。)

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